広島地方裁判所福山支部 昭和63年(わ)149号 判決 1991年6月25日
主文
被告人を死刑に処する。
押収してある出刃包丁一本(昭和六三年押第三九号の1)を没収する。
理由
(犯行に至る経緯等)
一 被告人の身上・経歴等
被告人は、一九三一年(昭和六年)四月七日、大阪府中河内郡柏原町(現在の柏原市)において、養豚・養鶏業を営む父Hの長男(第二子)として出生し(母の名は不詳)、地元の国民学校に入学したが、学業を嫌って一年で登校をやめ、一時韓国に住む叔父の許に預けられたり、実父母方に戻って家業を手伝ったりしたが、厳しい父親との間がうまく行かず、家を飛び出して不良仲間と交わり、次第に非行に走るようになった。そして、昭和二四年六月、大阪簡易裁判所で窃盗罪により懲役一年六月(三年間執行猶予)に処せられたのを最初として、窃盗・傷害・恐喝・強盗未遂等の犯罪を繰り返し、その間、刑務所内で受刑者と口論のうえ、天秤棒で相手の頭部を強打して脳挫傷により死亡させ、また、看守を殴打して負傷させたことで、昭和三一年一一月に、殺人・公務執行妨害等の罪により懲役八年に処せられたこともあり、これまで実に一五回の懲役刑と五回の罰金刑に処せられ、その宣告刑の合計は二七年余、実際の服役期間も通算二〇年を超え、服役していない間は、一時沖仲士として働いたことがあるものの、ほとんど正業につかず、いわゆるサイ本引きなどの賭博によって生活の糧を得ていた。このような生活は、昭和六〇年一一月、最終の服役を終えて出所した後も同様であり、弟や姉妹との間も疎遠となり、単身で大阪市都島区内のアパート「甲野荘」に居住して、賭博を主な生活手段としてきた。
なお、被告人は、前記のとおり学校教育を受けていないため、現在でも自分の氏名以外はほとんど読み書きができない状態にある。
二 被告人とA子との関係
1 A子は、明治四〇年九月九日生まれで、昭和七年ころに結婚した亡Fとの間に長女B子(昭和八年一一月二二日生)及び次女C子(昭和一八年二月七日生)をもうけた。B子はG(昭和七年五月一五日生)と結婚し(夫婦はAの姓を称した。)、福山市内で「乙山」の名でスタンドバーやクラブを経営したが、昭和五四年八月ころから、同市瀬戸町《番地省略》所在の同クラブ従業員寮を自宅兼店舗に改築して、飲食店「お食事処乙山」(以下、単に「乙山」という。)を経営するようになった。なお、Gの実母H子(明治四三年八月二三日生)は、夫と死別後、「乙山」の隣に住む次男I(Gの弟)方に同居していた。また、A子の次女C子はJと結婚し、夫や長女とともに同市大門町の自宅で生活していた。
A子夫婦は、Fが熊本市内の勤務先を定年退職した後、昭和四二年ころ福山市に移住して、前記の寮でB子夫婦と同居したが、B子らがこれを改築して「乙山」を開店したのを機に別居して、同市蔵王町内のアパートに、次いで昭和五五年五月からは同市大門町の丙川アパートに住み、同五七年一一月一一日にFが病没した後は、A子が右アパートで一人暮らしをしていた。
A子は、昭和六二年一月当時八〇歳であったが、近所に住む次女C子が時々家事の面倒をみる位で、独居生活に支障はなく、外見上はその年齢よりもかなり若く見られがちであった。また、生計の面は、亡夫の年金やそれまでの貯えで余裕があり、日ごろ芝居見物を楽しみにして、同市東町所在の大衆演芸場「第一劇場」に足しげく通っていた。
2 昭和六一年一月一四日ころ、A子は、以前同劇場の下足番をしていたKなる男や、同人の知り合いのL子とともに、泊まりがけで大阪に芝居見物に出掛け、その翌日ころ、A子は右Kの紹介で初めて被告人を知った。ところが、同日夜、Aが所持金を盗まれるという出来事があり、被告人は同女のために宿の世話をしてやり、また、その翌日、同女を大阪から福山まで送り届けてやった。このことで、A子は被告人に好感を持ち、その後も連絡をとり合って上阪し、被告人の住む「甲野荘」に泊まって芝居見物などをするうちに、両名は情交関係を結ぶに至り、A子は被告人を福山に呼んで一緒に暮らすことを望むようになり、被告人もこれに異存なく、両名は同年二月中旬、前記丙川アパートで同居生活を開始した。A子の娘のB子とC子は、間もなくそのことを知って、右同居に強く反対することで一致し、早々に別れるようにA子らを説得しようとして、同月二五日ころ、「乙山」において、B子、C子、A子、被告人の四人で話し合いを持ち、B子やC子は、「どうしても別れないのなら親子の縁を切るし、今のアパートを出てもらう。」などと言って迫ったが、A子は被告人に面倒をみてもらうと言い張ってきかず、被告人も、A子の気持ち次第との態度を示し、結局、話し合いは物別れに終わり、両名は同居生活を続けることとなった(なお、同年六月始めには、同市大門町《番地省略》のアパート((以下、「大門町のアパート」という。))に転居した。)。
3 その同居生活において、A子は被告人を「M」と名付け、互いに「Mちゃん」「お母さん」と呼び合い、被告人は、掃除、洗濯、買物、縫い物などの家事のほか、A子の入浴や洗髪、手足の爪切りなどの世話までして暮らし、当初は男女の関係もあったが、間もなくA子の実際の年齢がわかった後は、被告人はむしろ同女に母性を感じつつ、右のように身の回りの世話につとめていた。また、A子は娘二人のことについて、被告人に対し、「乙山」の開店資金や経営資金をB子夫婦に用立ててやったのに全く返そうとしないとか、亡夫Fの墓を造るにあたって自分が建造資金の多くを負担したのに、無断で「G建立」と刻まれたとか、C子が夫の言いなりで、娘としてのつとめを果たしてくれないなどと、二人に対する不満を日常的に被告人に語り聞かせていた。
しかし、一面では、A子は、被告人が全く職に就こうとしないことを疎ましく思い、また、同居生活にも次第に飽きがきて、被告人と別れたいと考えることもあり、同年七月下旬には、しばらく家出すれば被告人も同居をあきらめて大阪に帰るかも知れないと思いつき、三〇万円を被告人に渡すよう家主に託して、被告人に無断で家を出て、熊本県山鹿市に住む親戚のもとに身を寄せたが、一〇日ほどして福山に戻り、「第一劇場」に行ったところを被告人に見つかり、大門町のアパートに連れ戻されるという出来事もあった。
三 本件犯行の経緯と動機
1 被告人は、昭和六三年一月ころからパチンコ店に頻繁に出入りするようになり、しばしばA子にその資金を出させ、また、A子から見て得体の知れない男をアパートに連れ帰って泊めたり、時には同衾していることさえあったため、A子は被告人に嫌気がさすことが多くなり、被告人と別れたいとの気持ちを強めて行ったが、正面から別れ話を持ち出しても到底聞き入れてもらえそうになく、かえってどのような激昂を招くかも知れないと懸念されたため、穏便に別れられる方策をあれこれと思案するようになった。そして、その一つとして、かつて大阪に同行し、被告人が気に入っていたL子(広島市在住の主婦)に被告人の関心を向けさせて、自分への執着をそらそうと思い立って、同年三月上旬、右L子を呼び寄せ、被告人と三人で同居生活を始めたが、一〇日位で同女が広島に逃げ帰ってしまい、A子の目論見は失敗した。一方、A子はC子に対しても、被告人と別れたいと訴えて助力を求め、C子としては、A子が強い反対を押し切って被告人と同居してきたことから、当初はA子の頼みを相手にしなかったが、その訴えが切実になるにつれて、やむなくこれに協力する気持ちを固め、別れるための方策を相談するようになった。
2 そして、同年五月一二日ころに至り、A子は、間もなく亡夫Fの七回忌が来ることから、Fの実兄Nが墓参に訪れて大門町のアパートに滞在するという架空の事柄を告げて被告人を一時大阪に帰らせ、その不在中に転居して姿を隠すという方法を思いつき、この計画をC子と協議して、同年六月四日を転居の日と定めて実行に移すこととし、右の趣旨を被告人に話して、六月四日から二、三日留守にしてほしいと頼んだところ、被告人はA子の言葉を信じて、その間大阪に行くことを承諾した。一方、C子は早速A子の転居先を探し始め、五月中旬ころには、六月から入居予定として借家を借り、引越し業者なども手配して転居に備えたほか、後に被告人が嘘に気付いた際に、Nにまで迷惑が及ぶことを防ぐため、「D」という架空の人物がA子を連れ去ったもののように偽装しておくことにして、予め右「D」の実在を示すため、旧知のO子(横浜市内在住)に頼んで、「横浜市港北区《番地省略》D子」なる差出人名義の封書(C子が書いて右O子に送っておいたもの)を大門町のアパート宛てに投函してもらった。そして、同年六月四日朝、A子は被告人に大阪行きの旅費や小遣いとして二〇万円を渡したうえ、被告人をJR福山駅から大阪に向けて送り出し、大門町のアパート内には「D子」の名義で、自分と夫、友人らがA子を横浜に連れて行って世話をするとの趣旨の置き手紙を残し、同日夕刻、家財道具とともに転居先(福山市東深津町の借家)に入居した。なお、その際、被告人の衣類や外国人登録証明書、印鑑等は、被告人の義兄であるPに宛てて宅配便で送ることとした。
3 一方、被告人は、同日夜、大阪から大門町のアパートに電話したが不通であり、翌五日朝まで何度かけても通じなかったので、不審に思い、急ぎ大阪を発って同アパートに戻ってみたところ、室内が全くからになっており、前記の置き手紙を隣人らに読んでもらってはじめて、Nのアパート滞在の件が作りごとであることを知るとともに、「D子」夫婦とその友人らが計画的に被告人を騙してA子を連れ出したと思い込むに至った。そこで、被告人は、大門町の派出所に家財道具の盗難を届け出たり、A子と横浜の「D子」なる人物の所在を捜すべく、C子方、B子方や家主方を尋ね回るなどしたが、C子、B子はいずれも、A子とは縁を切っており関係がないとして相手にせず、押問答のすえ、両名方ともに、通報によってパトカーが駆けつける騒ぎとなった。そして、被告人は、翌六日も、A子との取引きのあった大門郵便局や福山市農協大門出張所に行って、A子から住所の変更届等が出されていないかを尋ねたり、また、福山市役所に赴いてA子の転居先を尋ね、係員に頼み込んで「D子」の住所を調査させるなどしたが、A子らの所在を発見するに至らなかった。
このように、被告人はA子らの所在捜索のため各方面を尋ね歩いたが、手がかりは全く得られず、しかも、その捜索行動の中でも、読み書きができないために十分な説明ができず、みじめな思いをさせられることが再三であったことから、A子を連れ去った「D子」夫婦とその友人数名、また、被告人との面談を拒んでひたすら追い返そうとするB子夫婦とC子に対し、激しい憎悪の念を募らせ、ついには、これらの全員を殺害して恨みを晴らそうと考えるようになったが、D夫婦とその友人らについては手を尽くしても全く所在不明であるため、ひとまず除外せざるを得ず、この際B子夫婦及びC子を殺害するほかはないと決意するに至った。
4 そこで、被告人は同月七日昼ころ、福山市霞町所在の金物店で、折れない包丁をくれと何度も念押ししたうえで、刃体の長さ約二四センチメートル、刃体の幅(最大)約五・五センチメートル、重量約四一九グラムの極めて鋭利な出刃包丁(通称牛刀、昭和六三年押第三九号の1)を代金一万四〇〇〇円で購入し、さらに犯行発覚の後に自分がどのような心境で犯行に走ったのかを明らかにしておくために、福山駅付近で知り合った男に謝礼を与えて、同日夜、福山市内のホテルで、A子と知り合って以来の経過や同女が姿を隠した状況、現在の自分の心境や犯行の決意などを口授して書き取らせ、メモ紙六枚に及ぶ文書(被告人が捜査段階で「遺書」と称しているもの、前同押号の9)を作成させた。
一方で、被告人は、B子夫婦やC子の拒否的な態度から、被告人自身が同人らに面会を求めても、警戒されて対面は不可能と思われたため、第三者を使って同人らを呼び出したうえで殺害を実行しようと計画し、その役をつとめてくれそうな者を探すうち、同月九日に福山駅周辺で浮浪生活をしていたQと、翌一〇日には同じくRと出会い、両名に酒や食事をおごって、以後被告人と行動を共にさせ、一〇日夜は市内のビジネスホテルに三人で泊まったが、その間被告人は両名に対し、A子との生活や同女が姿を消した経緯、被告人に対するB子夫婦やC子の態度などを語り続け、同人らへの報復に助力するように頼み、その見返りとして各自に五〇万円の報酬を与えると約束し、Q、Rもその報酬につられて、被告人がB子やC子に危害を加えることまでは認識しつつも、呼び出し役として助力することを承諾した。そして、ホテルでは、被告人が両名に「乙山」及びC子方の出入口を開けさせるための口上を教えて練習させるなどした。
同月一一日夕刻、被告人は、同市伏見町所在のサウナバスにおいて、翌一二日にかねての計画を実行することを両名に告げ、再度、B子夫婦やC子を呼び出すための口実を考えて両名に教え込み、その練習を行わせるなどした(なお、Q及びRは、被告人のB子ら三名に対する殺害の意図までは知らず、何らかの危害を加えようとしているとの認識に止まっていたもので、この点は、後記事実認定の補足説明二において詳述するとおりである。)。その際話し合われた実行手段の内容は、タクシーでまずC子方に赴き、Qが「D子」の夫を装ってC子を呼び出したうえ、被告人が同女に危害を加え、その間Rは「乙山」にすぐ移動できるようにタクシーを確保しておくこと、次にB子方では、QとRが「乙山」への弁当注文の客を装って、B子夫婦に玄関を開けさせたうえ、被告人が店内に入り同女らに危害を加えるというものであった。
5 被告人ら三名は、同月一二日午前六時三〇分ころ、サウナバスの宿泊室を出て付近のうどん屋で朝食をとり、午前七時ころ福山駅に向かい、被告人は構内のコインロッカーから前記出刃包丁を入れた買物袋(前同押号の8)を取り出し、午前七時一〇分ころ、同駅裏のタクシー乗り場に呼んでおいたS運転のタクシーに乗車した。そして、被告人は、S運転手に対して、まず同市大門町方面に向かい、次いで同市瀬戸町方面へ行ってくれと命じ、午前七時二五分ころ、JR大門駅西一番ガードの南側付近にさしかかったところで停車を命じ、Rにはその場でタクシーを待たせておくように指示したうえ、前記出刃包丁入りの買物袋を携えて、Qとともに降車した。
(罪となるべき事実)
被告人は、
第一 C子(当時四五歳)の殺害を実行するため、昭和六三年六月一二日午前七時二五分ころ、福山市大門町《番地省略》の同女方付近道路において、出刃包丁一本(刃体の長さ約二四センチメートル、昭和六三年押第三九号の1)を携帯して、Qの呼び出しに応じ同女が門扉を開けるのを待ち受けて、同女を殺害する機会をうかがい、もって殺人の予備をした。
第二 C子がQの来訪を怪しんで門扉を開けなかったことから、同女の殺害を断念し、S運転手に命じて、同市瀬戸町所在の、G(当時五六歳)・B子(当時五四歳)夫婦が経営する「お食事処乙山」に向けて走行させ、同日午前八時一五分ころ、同店付近に至り、まず、Q及びRが弁当注文の客を装ってGに玄関ガラス戸を開けさせ、店内で架空の注文をするうちに、被告人が前記出刃包丁を持って店内に押し入り、Gに対しA子への仕打ちを激しく罵ったうえ、同店のバーにおいて、殺意をもって右出刃包丁で同人の右頸部を一突きし、悲鳴をあげて逃げようとする同人の胸部や右横腹を力まかせに突き刺し、次いで、その場に居合わせたGの実母E子(当時七七歳)が、被告人にしがみつき、突き飛ばしてもさらにしがみついて右出刃包丁を取り上げようとしたことから、同女に対しても殺意を抱き、同店厨房内において、同女の左腋窩部、顔面、腹部等を右出刃包丁で突き刺しあるいは切りつけ、さらに、同店二階から階段を降りてきたB子に対し、殺意をもって、右出刃包丁を正面下方から突き上げるようにして同女の頸部を突き刺し、右Gに右内頸静脈切断、上大静脈・右肺静脈・右腎臓・肝臓右葉の各損傷等の、右E子に左上腕動静脈切断、左肺貫通、胃・膵臓・腸間膜・小腸・結腸の各損傷等の、右B子に左右総頸動脈・左内頸静脈・気管・右鎖骨下動脈の各切断、右肺上葉損傷等の各傷害を負わせ、よって、間もなく、右Gを同店北側の農道上で、右E子及びB子を同店内階段付近で、いずれも右各傷害により失血死させて殺害した。
第三 業務その他正当な理由がないのに、前記第一及び第二記載の日時・場所において、刃体の長さ約二四センチメートルの前記出刃包丁一本を携帯した
ものである。
(証拠の標目)《省略》
(事実認定の補足説明)
一 E子に対する殺意について
被告人及び弁護人は、判示第二の犯行当時、被告人は、E子に対しては殺意を抱いていなかった旨主張するところ、なるほど被告人が右犯行に先立って、G・B子夫婦に対すると同様に、A子をも殺害しようとの企図を有していなかったことは明らかである。
しかし、同女を殺害するに至った経緯をみるに、前掲各証拠によれば、E子は「乙山」の隣家に住んで日頃同店に出入りしていたが、右犯行の直前、Q及びRの来訪に不審を持ったB子からの電話で、右両名を追い返すよう助力を求められて同店に出向いたところ、被告人のGに対する凶行の場に遭遇し、被告人にしがみついて制止しようとしたこと、被告人は「邪魔するな」と叫んで同女を二、三回突き飛ばしたが、なおも必死にしがみついてくるため、Gを刺したばかりの出刃包丁で同女の腹部あたりを一突きし、それでも右包丁を取り上げようとする同女に対し、多数回にわたって突き刺しあるいは切りつける攻撃を加えたことが認められる。そして、凶器たる出刃包丁は、判示のとおり大型で重量のある、極めて鋭利かつ強靱なものであり、これによってE子の身体に与えた創傷の部位・程度をみると、顔面、両肩、左腋窩部、胸部、上腹部、両上肢に合計一七か所にも及ぶ刺切創があり、そのうち左腋窩部の刺切創は、左上腕動静脈を切断しかつ左肺を貫通し、また、上腹部の二か所の刺創は、胃・膵臓・腸間膜・小腸・結腸等を損傷し、これらの刺切創が致命傷となってE子をその場で失血死させたものであること、なお、顔面の刺創は、下顎部左側に骨折を伴うほどの強力な刺突の結果であることが認められる。このような凶器の性状、創傷の部位・程度等からみて、被告人はE子に対し、何の手加減も加えず、その身体の枢要部分に向けて強烈でしかも執拗な攻撃を加えたことが明らかである。
被告人は、このような攻撃に際しての自己の心理につき、捜査段階において、「最初はE子をおどすつもりで腹あたりを出刃包丁で軽く一突きしたが、同女がわめきながら包丁を取り上げようとしたため、自分もわずらわしくなり、一人殺すのも二人殺すのも同じだという気になって、三回位左胸あたりを見境なく突き刺したり切りつけたりした。」とか、「E子が刃物を奪おうとしたので、私は二度ばかり押し返したが、それでもなおかかってくるので、私もカッとなり、うるさいやつだと思い、刃物で相手を切りつけたが、一〇回位はどこといわず切りつけていると思います。」「E子は当初の私の計画には殺す相手として考えていなかったのですが、しつこく私にからんで来るので、うるさいやつや、こいつも殺してしまえと思って牛刀で切りつけてしまった。」などと供述しているが、前記の事実関係に照らし、右供述は大筋において信用することができ、これらの事実及び供述内容を総合すると、被告人がE子に対する攻撃の時点において、同女を死に致すことを明らかに認識しかつ認容していたこと、すなわちその攻撃が殺意をもってなされたことを認定するに十分である。
二 殺人予備の共謀の点について
判示第一の殺人予備についての公訴事実の要旨は、「被告人は、Q及びRと共謀の上、判示第一の日時・場所において、QがC子に同女方の門扉を開けさせるべく、インターホンで同女に面会を求め、被告人が出刃包丁一本を携帯して同女が門扉を開けるのを待ち受け、Rが逃走用の車両を確保して待機するなどして、同女の殺害の機会をうかがい、もって殺人の予備をなした」というものである。しかし、右殺人予備の訴因中の外形的事実及び被告人がC子殺害の意図を有していた事実は、前掲各証拠によって優に認められるものの、Q及びRが被告人の右殺害意図を認識し認容していたと認めるには足りず、したがって、殺人予備の共謀を認めるに不十分であり、結局、被告人が単独で殺人予備行為をなしたものと認定したので、以下、その理由を述べる。
Q及びRの捜査段階における各供述調書中には、右両名が、被告人の言動や約束された報酬額の大きさ等から、被告人のC子らに対する殺害意図を認識ないし推測して、犯行に加担した旨の供述部分が存するが、両名とも、公判段階においては、右のような認識や推測を否定する旨供述するに至っている(第一回公判調書中の右両名の各供述部分)。
そこで、右両名の前記各供述調書中の供述部分の信用性について検討するに、関係各証拠によれば、(一)被告人は、Q及びRの両名に対し、G・B子夫婦やC子に加えようとしている攻撃について、「とどめを刺す」とか、「いってもうたる」「決着をつける」「パンチをくらわす」などと、必ずしも殺害とは直結しない、かなり幅のある言い方で話していたこと、(二)C子らを呼び出す口実を右両名に教えて、練習までさせたにもかかわらず、その上で自分が実際にどのような手段で同女に攻撃を加えるのか、具体的な態様については一切言及していないこと、(三)被告人は、前記のとおり、犯行の決意などを第三者に口述して筆記させ、常時これを身につけて持ち歩いており、右両名に一読させれば殺害の意図は明白であるのに、最後まで右文章を見せずに終わったこと、(四)本件各犯行に使用した出刃包丁を事前に購入し準備していたにもかかわらず、犯行前にこれを右両名に見せたことはなく、その所持を打ち明けたことさえないこと、(五)右両名は、「乙山」の付近で被告人が同店から出て来るのを待っていたが、被告人がB子夫婦らを殺害して来たことを知るや、タクシーのS運転手の目にも明らかなほどに驚愕、狼狽の様子を示したこと、以上の事実が認められる。これらの諸点に照らすとき、右両名の公判段階における弁解は強ち排除しきれないものがあり、被告人のC子らに対する殺害意図を認識、推測していた旨の、右両名の前記各供述調書中の供述部分の信用性には少なからず疑問があって、これをそのまま事実認定に供することはできないものと判断される。
そして、他に、右両名が被告人の殺害意図を認識していた事実を認めるに十分な証拠もないから、結局、C子に対する殺人予備については、被告人と右両名の間の共謀関係について証明がないことに帰する。そこで、判示第一のとおり、被告人が単独でB子に対する殺人予備をなしたものと認定した次第である。
(累犯前科)
被告人は、昭和五八年二月二五日大阪地方裁判所で強盗未遂罪により懲役二年六月に処せられ、昭和六〇年一一月一一日右刑の執行を受け終わったものであって、この事実は検察事務官作成の前科調書(丁)及び被告人ほか一名に対する大阪地方裁判所昭和五七年(わ)第四七二九号強盗未遂被告事件の判決書の謄本によってこれを認める。
(法令の適用)
被告人の判示第一の所為は刑法二〇一条本文(一九九条)に、判示第二の各所為はいずれも同法一九九条に、判示第三の所為は銃砲刀剣類所持等取締法三二条三号、二二条にそれぞれ該当するところ、判示第二の各所為につき、後記量刑事情を勘案の上、所定刑中いずれも死刑を、判示第三の罪については所定刑中懲役刑をそれぞれ選択し、前記の前科があるので、判示第一及び第三の各罪の刑につき、刑法五六条一項、五七条によりそれぞれ再犯の加重をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるが、刑及び犯情の最も重い判示第二のGに対する殺人罪につき死刑に処すべき場合であるから、同法四六条一項本文により他の刑を科さず、被告人を死刑に処し、押収してある出刃包丁一本(昭和六三年押第三九号の1)は判示第二の各犯行の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項を適用してこれを没収し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
(弁護人の主張に対する判断)
一 心神耗弱の主張について
弁護人は、被告人は、中等度の知能障害を有する精神薄弱者であり、かつ、爆発性の異常性格者であって、本件各犯行当時、この知能障害のために心神耗弱の状態にあったと主張するので、以下、検討を加える。
1 当裁判所は、被告人の本件各犯行時の精神状態について、弁護人、検察官の各鑑定申請を採用し、鑑定人庄盛敦子、同浅尾博一にそれぞれ鑑定を命じて各鑑定書の提出を受け、かつ、右両名を証人として尋問した。それぞれの鑑定経過の要点及び結論部分を摘記すれば、以下のとおりである。
(一) 鑑定人庄盛敦子作成の鑑定書及び第二五回公判調書中の証人庄盛敦子の供述部分(以下「庄盛鑑定」という。)
(1) 脳のコンピューター断層撮影(C・T)においては、脳出血、萎縮、梗塞などの異常所見はなく、血腫などもみられず、また、脳波検査においても、脳の器質性ないし機能性異常を反映するような所見はない。その他、脳神経、知覚・運動障害もみられず、神経学的所見は正常である。
(2) 被告人に読み書きの能力がほとんどないため、言語によらないでも検査のできるコース立方体組合せテスト及びベンダーゲシュタルトテストによって知能程度を測定したところ、前者は精神年齢七歳という結果を示し、また、後者によっても図形模写の歪みや位置の異常から、知能障害のあることが示唆された。面接の所見としてもかなりの知能障害が認められる。
(3) 一面において、被告人は、多年経験している事柄についてはかなり正解を与えることできるし、本件犯行を決意して以来、その計画を練り、助手としてQ・Rを手なずけて綿密に相談し、役割分担を決め、そのとおりに実行しており、犯行時の意識は清明で、犯行中の記憶も保たれている。これらの点から、被告人が長年経験した分野、例えば博打や犯罪の計画・実行においては、常人以上の能力があるのかもしれず、総合的にみて、精神年齢は七歳よりやや高いが一〇歳よりは低い(具体的には八、九歳程度)と考えられる。これは中等度の知能障害(痴愚、知能指数二五ないし五〇程度)にあたる。
(4) 性格面について、矢田部・ギルフォード性格テストの結果は、攻撃性、衝動性、支配性が強くみられる一方、内省的な面が欠如しており、面接所見を総合して、爆発性の異常性格と認められる。
(5) 結論として、被告人の犯行時の精神状態は、爆発性の異常性格及び中等度の知能障害の状態にあり、この知能障害のために、是非善悪を判断し、それに従って行動する能力を著しく減じた状態、すなわち限定された責任能力しか有しない状態にあった。
(二) 鑑定人浅尾博一作成の鑑定書及び証人浅尾博一に対する当裁判所の尋問調書(以下、「浅尾鑑定」という。)
(1) 脳波検査、C・T検査等は被告人が受診ずみとして断ったため実施していないが、神経学的検査では異常を認めない。
(2) ロールシャッハテスト及び鈴木・ビネー式個人テスト(文章を読ませる部分を除く)を実施したところ、前者からは知的能力の低さ(軽度ないし中等度)と、人格的な柔軟性の薄さ、知識・感情・意志の面の貧弱さが認められた。また、後者は口頭によるもののみを取り上げて施行したところ、総得点は34ないし36であり、これを知能年齢に換算すると、八歳ないし八歳二か月となる。また、知能指数は暦年齢一六歳のそれを一〇〇として算定するので、五〇ないし五一となり、右は軽愚(軽度の精神薄弱、一般に知能指数五〇ないし七五)に属する。
(3) しかし、知能の程度を測るについて、知能指数は一つの基準に過ぎず、生活能力や社会生活への適応性、自主性等を総合して判断すべきところ、被告人は日雇をしてアパートで独立の生活を営み、博打でも慣れるに従って時に大金を得るほどに上達し、集中力や知的能力としての「勘」を備えていることを示しており、また、例えば買物をしたり乗車券を買うなど、自立した社会生活を送ることも可能である。これらの点を総合すると、被告人は、全く正常な知的能力の持ち主とはいえないが、軽愚者のうちでは高い程度(正常に近い部類)に属するということができる。
(4) 性格面では、前記テスト結果及び問診の結果から、些細な原因で激高し、突然暴力的な反応を起こす爆発性性格、同時に、廻りくどく迂遠な粘着性性格の持ち主と認められる。
(5) なお、責任能力に関して参考意見を述べれば、被告人は是非善悪を弁別する能力は有しているが、その爆発的性格から、行為抑制能力が幾分欠けていたかもしれない。
2 以上のとおり、両鑑定ともに、被告人の知能程度については、テスト結果に若干の修正(社会生活の能力等を勘案した上方修正)を施して、その知能の段階を判定しているが、結論において、中等度の知能障害(痴愚)と軽度の知能障害(軽愚)との相違を来している。しかし、被告人の精神年齢については、一方は八、九歳、他は八・二歳程度と判定してその間に大差はなく、これを知能指数に換算すれば、一六歳の平均人の知能指数を一〇〇とする一般的見解を採る場合、庄盛鑑定によっても五〇(精神年齢八歳として)ないし五六(同九歳として)となる。そして、知能障害を軽度(軽愚または魯鈍)、中等度(痴愚)及び重度(白痴)の三段階に類別するとき、知能指数との対応関係については必ずしも見解が統一されてはいないけれども、有力なものとして、知能指数五〇ないし七五を軽度、二五ないし五〇を中等度、二五以下を重度に分類する方法が行われているから、これを適用すれば、庄盛鑑定によっても、被告人の知能障害を軽度のもの(軽愚)とみても強ち不合理ではないと考えられる。また、被告人は学校教育を全くといってよいほど受けておらず、図形を模写するような作業には著しく不慣れであることが窺われる(当公判廷においても、ボールペンなんか持って書いたことがなく、書けないのでいやだったと述べている。)から、そのような方法によるテストの結果が、日常生活上の知的能力より低く表われることも多分に考えられるところである。
その他、後述するような、被告人の犯行前後の行動等をも総合勘案すると、被告人の知能障害については、浅尾鑑定の結論部分を採用して、軽度(軽愚)に属すると認めるのが相当である。
3 次に、被告人の性格面については、前記のとおり、両鑑定ともに、爆発性の異常性格と判定している。そして、庄盛鑑定は、その爆発性性格が知能障害と結びついて本件犯行に及んだと指摘する(鑑定書二九ページ)のであるが、鑑定主文においては、「中等度の知能障害の為に限定された責任能力しか有しなかった」との判断を示し、爆発性性格を責任能力限定の事由としては掲げておらず、かえって、被告人の場合、その性格をもって責任能力を云々することはできない旨を述べている(鑑定書三三ページ、第二五回公判調書中の供述部分二三項、二五項)。一方、浅尾鑑定も、被告人の爆発性性格が本件犯行に大いに関与していると指摘し、前記のとおり、「行為抑制能力に幾分欠けていたかも知れない」との見解を示しているが、証人尋問においてはその趣旨を敷衍して、右見解はE子に対する犯行について述べたもので、同女に対する限り爆発型性格のため抑制能力がやや欠けていたと考えられるが、抑制能力が著しく減退していたとはいえない(心神耗弱とは見ていない)と説明している(浅尾博一の証人尋問調書一四ないし二〇項)。
このように、両鑑定とも、被告人の性格異常を指摘しつつも、それを責任能力を限定すべき要因とはみなしていないことが明らかである。
4 ところで、心神耗弱とは、是非善悪を弁識し、かつ、その弁識に従って行動する能力が著しく劣る状態をいい、それは法律的評価に属することであるから、心神耗弱にあたるか否かは、精神的障害の有無・程度が重要な判断要素となることは勿論ながら、それに尽きるものではなく、犯行の動機、犯行の手段・態様、犯行前後の被告人の行動、これらについての被告人の記憶の有無・程度等の一切の状況を併せ考慮して、判断すべきものである。そこで、これらの諸点につき立ち入って検討する。
(一) 本件犯行の動機は、既に詳述したとおり、A子が「D子」夫婦らと失踪し、被告人は同女らの所在を探すべく手段を尽くしたが全く判明せず、A子の娘であるC子やB子のもとに尋ねに行っても、相手にされず門前払いされたことから、B子夫婦とC子に対し激しい憎悪の念を募らせてその殺害を決意するに至ったもので、右動機は、甚だしく短絡的、自己中心的というべきであるが、犯罪心理として了解不可能なものではない。また、E子に対しては、G殺害の現場に居合わせて必死に被告人にしがみつき制止しようとしたため、これを排除すべくとっさに決意したもので、その性急さ安易さに驚かざるを得ないが、これも動機として了解は可能である。
(二) 犯行前の被告人の行動をみるに、日常的には、A子との同居生活において、家事全般や同女の身の回りの世話によくつとめ、時折近隣の住人に対し粗暴な振る舞いはあったものの、それとても理解を越えるほどの異常な行動ではなかった。そして、A子の失踪を知った後、落胆のうちにも、同女の所在を探してB子方、C子方、家主方等を尋ねて回る一方、警察官派出所、A子の預貯金先の郵便局・農協支所、市役所等にも赴いて事情を訴えたり所在の調査を頼むなどしており、このような行動は、一応目的にかなった合理的なものということができる。
次いで、被告人は、B子夫婦及びC子の殺害を決意するや、確実にその目的を遂げるために、十分に殺傷力のある強靱な出刃包丁(通称牛刀)を購入して準備し、同人らが被告人を強く警戒していることから、単独ではその殺害に成功する見込みが乏しいと考えて、同人らを呼び出すための協力者としてQ及びRを誘い込み、呼び出しの口実を細かに教えて練習させるなどした。また、犯行現場二か所への接近手段として、タクシーを確保すべく予め手を打ったり、犯行当日朝、Q・Rらと朝食をとった際、行動に支障を来たさないよう、ビールの量を少なめに抑えたり、犯行直前まで前記出刃包丁が他人の目に触れないようにするなど、かなりの心配りや用心深さを示している。
そして、犯行現場においては、Q・Rが居合わせる前でGらを殺害しては右両名に累が及ぶと考え、目顔で合図して両名を店外に立ち去らせた後犯行に着手しており、さらに、殺害行為自体も、G及びB子に対しては、頸部めがけて出刃包丁で強烈な第一撃を加えるというもので、殺害目的を確実に果たそうという意図が明らかに看取され(なお、Gに対しては急所をやや外したものの、B子は右の一撃のもとに絶命した。)、一方、E子に対しては、当初二、三回突き飛ばして排除を試みるなど、G・B子夫婦に対するのとは全く異なる配慮を見せている。
このように、本件犯行は、E子の殺害を除き、一貫した強い意思と周到な計画、準備に基づいて決行されたものであり、犯行の時点においても、被告人の意識は清明であったと認められる。
(三) 犯行後、被告人は逃走の途中、タクシーを停車させて一一〇番通報し、Tと名乗って、瀬戸町内で夫婦を殺害した旨を申告している。もっとも、右申告は、後に詳述するとおり、「D子」やC子を呼んで自分と会わせてほしいとの要求を伴うもので、むしろ被告人の主目的はその点にあったと解され、一面で状況理解の幼稚さを窺わせるけれども、結局、担当官に現在場所を告げて警察官の到着を待ち、任意同行に応じたのであるから、被告人は自ら申告することの意味やその結果については十分に理解していたと認められる。
(四) 被告人は、本件犯行の態様やその前後の状況等について、極めて詳細かつ具体的に供述しており、その内容は一貫性を保ち、かつ、関係者らの供述や証拠によって認められる客観的事実ともよく符合しているのであって、被告人の記憶は明瞭かつ正確なものということができる。
5 以上に検討したとおり、被告人は軽度の知能障害者でかつ爆発性の異常性格者であり、前記のような動機から、三名もの生命を奪う重大犯罪を敢行したことからみて、是非善悪の弁別能力や行動制禦の能力が、正常人に比してやや劣っていたことは否定できないと思われる。
しかし、既にみたように、その知能障害が軽度のもので、爆発性異常性格もそれ自体右の能力を著しく減退させるほどのものではないこと、犯行の動機が了解可能であること、周到な計画と準備に基づく犯行であること、犯行の前後の行動に特に異常な点は見受けられないこと、被告人の意識は清明で記憶も明瞭に保たれていること等の諸点を総合すると、被告人は本件各犯行当時、是非善悪を弁識し、かつその弁識に従って行動する能力が著しく劣る状態にはなかったと認めるのが相当である。
以上の理由で、弁護人の心神耗弱の主張は採用することができない。
二 自首の成否についての判断
弁護人は、被告人は、本件各犯行の直後、福山市曙町二丁目所在の公衆電話から一一〇番通報して自己の犯行である旨を申告し、かつ、駆けつけた警察官に対して、「逃げも隠れもせん。」といって訴追あるいは処分を求めており、右は自首に該当するものと主張するので判断するに、第一三回公判調書中の被告人の供述部分、被告人の司法警察員に対する昭和六三年六月二四日付供述調書、山内の警察官に対する同年七月二日付(七丁綴りのもの)及び司法警察員に対する同月一日付(一〇丁綴りのもの)各供述調書、Sの検察官に対する供述調書、司法警察員巡査部長熊元秀明ほか一名作成の同年六月一二日付(六丁綴りのもの)捜査状況報告書及び司法警察員作成の同月二一日付捜査状況報告書によれば、以下の事実が認められる。
1 福山東警察署巡査部長熊元秀明、同小田隆治は、昭和六三年六月一二日午前八時四〇分ころ、福山市消防局消防本部からの通報によって、本件第二の犯行の発生を知り、直ちに「乙山」に赴いて犯人の探索に着手した。
2 被告人は、判示第二の犯行後、「乙山」付近に待機させていたS運転のタクシーに乗車して、Q及びRとともに逃走を始めたが、その途中、福山市曙町《番地省略》U食料品店付近を過ぎたあたりでタクシーを停車させ、同店前の公衆電話で、Qに一一〇番を回させたうえ、これを受信した広島県警察本部警ら部通信指令課巡査部長下見川賢に対し、被告人が「T」の通称を名乗って、自分が「乙山」においてB子ら三名を殺害した旨を申告し、同時に、「責任はとる。C子を警察の方へ呼んでくれて、D子とお母さんを出してくれたら、私、警察に行きます。」などと述べた。そして、右下見川が通話場所を問いただしたのに対し、C子らとの面会を繰り返し要求し、それを受容れる返答を得たうえで、通話場所を告げようとしたが、付近の地理を知らないため、S運転手に代わって現在地を告げるように指示し、結局、同運転手が公衆電話番号を告げることで通話場所を明らかにした。
3 被告人は、右電話の後、その場で待機するうち、同日午前九時三〇分ころ、県警本部通信指令室の指令により同所に急行した前記熊元、小田両巡査部長から職務質問を受け、「わしが三人を殺した。計画を立ててやったことじゃ。逃げも隠れもせん。刺した包丁はそこのタクシーの座席の袋の中にある。」と述べて、同日午前一〇時二〇分ころ、福山西警察署に任意同行され、同日午後五時一五分、同署において通常逮捕された。
以上のとおり、被告人は、判示第二の事実につき、その犯人が捜査機関に発覚する以前に、自ら一一〇番通報して警察官に対し、通称ながら自分の姓を名乗り、自分の犯行であることも申告したものである。
もっとも、右申告は、警察官と直接に対面してなされたものではなく、検察官はこの点をとらえて、刑事訴訟法二四五条に規定する自首の方式(告訴・告発の方式を定める同法二四一条を準用している)を具備せず、刑法上の自首にあたらないと主張する。しかし、自首が刑の裁量的減軽事由とされている制度の趣旨・目的に照らして、告訴(刑事訴訟手続上重要な訴訟条件となる。)と全く同様に、その形式的手続面を重視する必要はないと解されるし、特に本件の場合、被告人は一一〇番通報によって警察官がその場に駆けつけて来ることを当然に予期し、それまで待機する意思を固めたうえで電話をしたことが認められ、現にその到着を待ち受けて所轄署への同行に応じているのであるから、右電話による申告も、刑法四二条一項にいう自首にあたると解するのが相当である。
次に、被告人は右自首にあたって、前記のとおり、警察がC子や「D子」らとの対面の機会をつくってくれるよう繰り返し要求したが、被告人の心中には、その機会をとらえ、あわよくば同人らに危害を加えて報復したいとの意図が強く働いていたと認められ、自己の所為についての悔悟の念から右申告に及んだものとは認め難いけれども、少なくとも、犯罪事実を自ら申告して刑事手続に委ねようという意思を含むものである以上、自首の成立を肯定すべきである。
しかしながら、被告人の前記のような意図が自首の契機(少なくともその重要部分)をなしたことは、被告人が三名もの生命を奪った後においても、なおかつC子らへの報復の執念を燃やし続けたその執拗性、危険性を示すものであって、このような自首が刑の減軽事由にあたるとは到底解し難い。
結局、本件においては、自首の成立は肯定されるものの、これによって刑を減軽することは相当でないというべきである。
(量刑の理由)
一 本件は、被告人と同居していた老女A子が突然姿を消したため、その行方を極力探索するうち、A子の長女夫婦や次女が所在を知りながら隠し立てしていると考えて恨みを抱き、かつ、同人らの冷淡な応対に立腹のあまり、その殺害を決意し、周到な準備をしたうえ、凶器を携えてまず次女C子方に赴き、門扉を開けたところを殺害しようと待ち受けたが、危険を察知されて果たさなかったものの、続いて長女B子方に赴き、ついにG・B子夫婦を殺害したばかりか、Gの実母をも殺害するに至ったという事案である。
二 まず、被告人が本件各犯行を決意するに至った動機・経緯についてさらに立ち入ってみると、被告人は、A子との生活において、日常家事の大部分を受け持ち、また、細かいことまでA子の世話をするなどの一面、足しげくパチンコに通ったり、街で飲食したり、時には大阪に出て賭場に出入りするなど、自由に振舞っていたもので、日常の生計はA子の年金や貯えで何の不安もなかったから、このような生活に深く満足していたと推察される(被告人は、検察官に対する供述調書中で、A子と一緒にいた間が自分にとって一番面白い時期だったと述懐している。)。したがって、被告人が、A子の失踪という予想外の出来事に直面して激しい衝撃を受けるとともに、残されていた置き手紙から、「D子」夫婦やその友人らがA子を連れ去ったものと認識して、同人らに対し強い憎しみを抱くに至ったこと、そして、A子やD子らの所在を探して被告人なりに手を尽くしたが、全く手がかりが得られず、次第に絶望的な気持ちに陥っていったことも、理解できないわけではない。
しかし、A子も八〇歳の高齢ながら、かなり自我の強い一面も有し、被告人との口論なども時々あったことが窺われるし、一度は同居に嫌気がさしてしばらく家出していた時期さえあり、また、亡夫の七回忌にその兄が来てアパートに逗留するとの作り話も、A子自身が被告人に告げたものであるから、同女との同居生活が一年三か月にも及ぶ被告人としては、今回の失踪も、同女自身の意思に基づくのではないかと考えてみる余地があったはずであり、その点に全く考えを向けず、一途に「D子」らへの憎しみを募らせ、その憎悪をついに殺意にまで高めて行ったのは、甚だ短絡的、他罰的、自己中心的というほかはない。しかも、被告人は右D子らとA子の所在発見が無理と悟るに及んで、D子らへの怒りをB子夫婦やC子に振り向けるかのように、同人らに対する殺意を固めるに至ったものであるが、被告人はその殺意形成の理由として、B子やC子がA子の行方を知らないとしらをきり、被告人を馬鹿にするような態度をとったことと、A子の実の娘またはその夫でありながら、かねて同女に冷たい仕打ちをして来たことを挙げている。しかし、C子は、母A子から繰り返し懇請されて、その老後の平安を願う気持ちから、被告人が平穏裡にA子との同居をあきらめて別れてくれるような方策を考えてその実現に努力したものであるし、G・B子夫婦に至っては、そのような計画自体に関与しておらず、単にC子からその概要を伝え聞き、今後被告人への対応に十分用心するようにと注意されていたに過ぎないと認められる。そして、そのような状況のもとで、C子やB子夫婦が被告人に対し、A子の所在を知らないと答えたことが、被告人への背信的態度として責められるべきものとはいえないし、また、それまでに知り得た被告人の性向や言動から、口論のすえ乱暴でもされかねないと恐れて、面談を避け続けたとしても、そのことを非難するのはあたらない。一方、B子夫婦らがA子に冷たい仕打ちをしたとの点については、A子がG・B子夫婦への貸金のことや亡Fの墓の件などで被告人に不満を訴えたことがあるとしても、あくまで母と娘夫婦の間の問題であって、遙か後年になってA子と係わりを持ったに過ぎない被告人が、これに介入し制裁までも加えるような事柄でないことは勿論である。
そのようなC子とG・B子夫婦に対し、ひたすら憎悪を募らせ殺害意図までを固めて実行するに至ったのは、「D子」夫婦の殺害を企図したことと比べても、より一層短絡的、他罰的であり、かつ、極端な人命軽視に根ざした犯行といわなければならない。さらに、E子に至っては、たまたま同女が息子Gに対する凶行の現場に来合わせて、息子を救うべく必死に被告人にしがみついたため、被告人はG殺害の邪魔になるというだけの理由で同女の殺害を決意したものであり、修羅場におけるとっさのこととはいえ、体力的に問題にもならない老女に対し、二、三度突き飛ばしてもなおしがみついて来たというだけで、凶刃を振るって殺害したことは、全く弁解の余地のない犯行というべきである。
以上のとおり、本件犯行の動機・経緯について、酌量に値するものを見出すことはできない。
三 次に、本件犯行の態様を見るに、被告人は、犯行を決意するや、まず金物店で「折れない包丁をくれ」と特に注文して、強靱で鋭利な出刃包丁(通称牛刀)を購入し、前記のような一種の決意表明の文章を代筆によって作成し、次に、被害者らを呼び出す役目を担わせるため、福山駅周辺で浮浪生活を送っていたQ及びRの両名を甘言を用いて誘い込み、被害者らへの接近のしかたを繰り返し練習させ、また、丁方や「乙山」への交通手段を確保するため、二日前に乗り合わせたタクシーの運転手にチップをはずんで指名を予告しておくなど、実行に向けて着々と準備を進めているのであって、本件は、強固な犯意に基づき周到に準備された、甚だ計画性の高い犯行というべきである。
そして、犯行の手段・方法は、判示のとおり、Gに対しては、所携の出刃包丁で同人の頸部をめがけて一突きし、「助けてくれ」と悲鳴をあげて逃げようとする同人の胸部や右横腹を力まかせに突き刺し、E子に対しては、同女がGを助けたい一心で被告人にしがみつくのを突き飛ばし、またも懸命にしがみつき包丁を取り上げようとするところを、その腹部、腋窩部等を突き刺し或いは切りつけ、さらに、B子に対しては、階段を降りてくる同女の頸部をめがけて突き上げるように突き刺したものであって、これらの攻撃は、判示のとおり、いずれも被害者三名の動・静脈やその内臓の枢要器官に重大な損傷を与えるような極めて強烈なものであった。このように、被告人は、確定的な殺意をもって、全く無防備な、また抵抗力の乏しい被害者らに対し、残虐かつ強烈な攻撃を加えたもので、まさに凶悪な犯行というほかはない。
なお、B子に対する殺害企図は、同女がQの不審な挙動に警戒して門扉を開けなかったために、幸いにも実現に至らず、予備の段階に止まったものであるが、被告人は、同女が自宅の門扉を開けさえすれば、いつでも所携の出刃包丁で突きかかれるように待ち構えていたものであって、右殺人予備の事案も、危機一髪ともいうべき危険な態様のものであったことが認められる。
四 さらに、本件は、被害者三名のかけがえのない生命を奪った事案であって、その結果は極めて重大である。
Gは当時五六歳、その妻B子は五四歳で、子供には恵まれなかったが、夫婦仲は円満で、ともに仕事熱心で協力して事業に励み、時には外国人留学生を店に招いてもてなすなど、社会的な奉仕活動にも熱心であった。また、E子は当時七七歳の老齢ではあったものの、取り立てて健康状態に不安はなく、次男夫婦と孫に囲まれて、平穏に余生を送っていたものである。しかも、右三名は、A子の失踪につき全く関与していなかったこと前記のとおりであり、本件を誘発するような何の落ち度もないのに、被告人の凶行によって、思いもかけない非業の死を遂げるに至ったものであって、死に至るまでの三名の恐怖と苦痛、そして無念さは察するに余りがある。
また、母E子と兄Gを一時に失ったI、長女B子とその夫Gを失ったA子、姉と義兄を失ったC子をはじめ、被害者三名の遺族の悲嘆は計り知れず、現在もなお、精神的に深刻な打撃を受けているものと推察されるのであって、その被害感情には極めて厳しいものがあり、被告人に対し極刑の宣告されることを望むその心情も十分に理解し得るところである。
五 また、本件は、休日の早朝、日ごろ平穏な地域に突然発生した殺人事件で、しかも被害者が三名にのぼる希有の事案であり、その手段の大胆さや凶悪さゆえに世間の注目を集め、地域住民に多大の衝撃と不安を与えたものであって、その社会的影響もまた重大である。
六 被告人の犯行後の行動・態度についてみるに、被告人は、「乙山」において被害者三名を殺害した後、一旦はタクシーで逃走を企てたが、走行中に翻意して一一〇番通報し、通話場所に向かった警察官に逮捕されたものであって、すでに説示したとおり、右は一応自首に該当すると解されるけれども、被告人の主たる目的は、警察の力で「D子」らの所在を捜索させ、同女らに会って恨みを晴らすことにあったと認められ、このような自首による刑の減軽が相当でないことは既に述べたとおりである。
また、被告人は、右逮捕の後、格別隠しだてすることもなく、取調べに応じて詳細な供述をしており、この点は公判段階においても同様であるが、B子夫婦やC子がA子に冷淡な仕打ちをし、また、自分を「こけ」にしたことが本件を招いたとして同人らを非難し、また後には、A子が被害者らの保険金目当てに被告人を利用して犯行に至らせたものであるとまで述べるに至っており、その態度は終始他罰的、自己中心的であって、ただ、E子についてだけは、何の恨みもない老女を巻き添えにしてしまったとの自覚から、反省の言葉を口にしているけれども、他の被害者に対しては、このような態度を審理の過程を通じついに見ることができなかったものである。
七 被告人の前科は、判示のとおり、実に二〇回(懲役刑一五回、罰金刑五回)にのぼり、その罪名も窃盗・傷害・恐喝・強盗未遂など多様であり、かつ、その中には、昭和三〇年に犯した殺人罪(大阪刑務所で服役中、受刑者と口論の末、天秤棒で頭部を殴打して脳挫傷により死亡させたもの)を含み、一八歳のころから五〇歳代の半ばを過ぎるまでの間、通算二〇年以上の年月を刑務所内で過ごしてきたものであって、このような前科が受刑歴、また、現在六〇歳を過ぎたその年齢や性格的特徴に照らすとき、もはや矯正教育の効果は期待できないといわざるを得ない。
八 以上に検討したような、本件各犯行の罪質、動機、その態様ことに殺害手段の残虐性、結果の重大性ことに三名もの生命が奪われたこと、遺族らの被害感情、社会的影響、被告人の前科関係、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、被告人の罪責はあまりにも重大というほかはない。
もとより、死刑は人間存在の根元たる生命そのものを奪い去る冷厳な極刑であり、誠にやむを得ない場合における究極の刑罰であって、その適用はあくまで慎重に行われなければならない。本件において、弁護人らが指摘するように、もしA子が被告人に対してはっきりと別れ話を申し出て、粘り強く説得の努力を続けたならば、少なくともこのような重大な結果だけは避けられたのではないかと考えられ、A子として窮余の策とはいいながら、判示のような作為的、演技的手段を用いて突然家財一切とともに姿を消したことが、被告人に甚だしい衝撃を与え、前記のような知能面、性格面の負因を持つ被告人を自暴自棄的な心理に追いやったことは否定できないところである。しかしながら、本件において、被告人に生命を奪われた三名は、いずれもA子のそのような画策や行動には全然関与しておらず、同女の失踪に関して被告人から恨みを受ける筋合いの全くない者らであることを、繰り返し指摘しなければならない。
当裁判所は、以上の一切の事情を考慮し、さらに、犯行の動機・態様、殺害された被害者の数など、犯情において本件と類似点のある各事件とも比較して慎重に検討を重ねたうえで、被告人の罪責の重大さに照らし、もはや死刑をもって臨むほかはないとの判断に到達したものである。
よって主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 田川雄三 裁判官 佐藤真弘 松藤和博)